音盤随想<インディペンデントの意義>

omay_yad2007-06-11

「Tulpas」はrlwの作品を再構築した5枚組CDである。それらは95〜97年の間に制作された音源が収められた古いアルバムである。rlw自らが運営するレーベル、Selektionがテーマのひとつとしている流通の場における情報の変遷という観点から楽曲を拡散・集合させたプロジェクトである。決して安易なリミックスやトリビュート企画ではない。rlwは80年代初頭のノイエ・ドイチェ・ヴェレの動向から更に地下へと進みラディカルな音楽活動を行ってきた。このアルバムにはノイズ寄りの作家から独自の電子工作を編み出した作家たち、あるいはそれらの動向に影響を受けた若手までが隔たりなく集まっている。彼等は互いに孤立して制作を続けていくうちに共通の関心事と幸運な機会によって邂逅し交流が始まっていった。10年前の各作家同士の連絡方法は今とは異なる。インターネットは既に整備されていたが利用はそれほど多くなく、手紙や電話あるいはファックスでのやりとりがその大半だった。今よりずっと不便で互いの遠さが感じられていた筈だ。
このアルバムでは各作家はrlwの作品をリファレンスとして作っているため、彼のコンポジションと自らの手法との関わりを見出した作品になっている。それは一聴するとどれもピエール・アンリあたりのエレクトロ・アコースティックの楽曲に似ていると言えるかもしれない。しかしここに集まった作家は孤立して独自に活動を続けてきた者たちだ。確信犯ではない。このことを意識してこのアルバムを聴いてみると、錯覚かもしれないが、各作家がインディペンデントであることを自負していると感じさせる何かがある。現在はネット上で音源ファイルがやりとりされ、マイスペースのような交流も可能になった。各々の作家の距離は随分と縮まったかのようである。しかしこれもまた錯覚かもしれないが、このアルバムに収められた楽曲を想うと、どこか気概に欠けた寄り合い所帯のような相を呈しているように見える。「Tulpas」で聴かれる、すれっからしで無頼な音の断片からインディペンデントであることの重要性が見える。交流が広がり便利になることは決して悪いことではない。現にこのアルバムがそれを証明している。問題は別のところにありそうだ。

”Patiruma” 山内桂

omay_yad2007-05-04

タイトル:"Patiruma"
アーティスト:山内桂
レーベル/番号:SALMO SAX 2/SFA002
制作情報:CD・2007年・日本

例えば海や山などの場所にしばらく滞在するとその場所の残像のようなものが肌に残ったような感覚になることがある。その場所の気温や湿度明るさや音などの状態が身体に染み込んだ様に。これはその場所において感じられるものだが、ことさら強く意識されるのはその場所を離れたときである。帰りのバスや立ち寄った喫茶店などでしみじみと先ほどまで滞在した場所の余韻が感じられる。風景によってエンボスされた身体がゆっくり元に戻っていくように、記憶から風景が消えかけていく瞬間。
山内のこのCDのタイトル曲は波照間の夕べの浜辺で打ち寄せる波のもとで作られた。彼の体験した空間の残像を聴くような素晴らしい演奏である。彼のサックス演奏は複数音を同時に発するブレス奏法にその特徴がある。現在、その奏法はフリージャズ・シーンで決して珍しくはないが、彼の演奏は自然環境のように変化自在で聴いていて厭きない。月並な表現だが、サックスは息による演奏とう言葉が頭に浮かぶ。このアルバムは自宅スタジオだけでなく宮崎の小川のほとりでの演奏も収められている。息詰まるようなフリーのソロ演奏を倦厭する者にとってこのアルバムは朗報である。楽器がサックスであることすら忘れてしまうような豊かな響きがある。息が風となって演奏家を通して聴こえてくる。短いフレーズを繰り返すことで、あるいは管を通過する息の強弱に身を任せることで、演奏家の姿は残像のように消えていくようである。

”hoffinger nonett” Radu Malfatti

omay_yad2007-05-01

タイトル:"hoffinger nonett"
アーティスト:Radu Malfatti
レーベル/番号:b-boim records/006
制作情報:CDR・2007年・オーストリー

私たちは音楽を受容する時感覚に依存し過ぎてきたのかもしれない。ラドゥの最近の一連の作品を聴く時痛いほどそのことを意識させられる。自己投影のできない音楽。それは聴く価値がないものだろうか。自己投影も度合いによるが少なくとも、美術の分野のミニマル・アートやコンセプチュアル・アートの作品には周到に観者の自己投影手続きを排除したものが少なくないし、それ自体は遥か昔から公に評価されている。しかし音楽の場合は異なり、極端に言えば快楽主義に走る傾向が強いと言わざるを得ないだろう。今や4'33"ですらリスナーは自らの趣向を聴くだろう。音楽は所詮慰みものなのだろうか。否。時間における構造を扱う芸術のひとつである筈である。しかし、音楽はこれからも延々と感覚を楽しませることに奉仕し続けるだろう。ただ、私たちは悟らなければならない。聴いて判る音楽は既に頭の中にあるのだ、ということを。
ラドゥの音楽は自己の外側にある。自己投影するものはここにはない。いや、自己投影させる手続きが丁寧に抜き取られている。それでは何があるのか、とあなたは問うだろう。何かがあるというのも幻想である。ここではその事自体を受け止めることが賢明である。自ら取りつく島の無い時間の構造。これを受け止めることで充分ではないだろうか。ここにすがすがしく広がる荒野を私たちは見るだろう。

この作品はサイン波の合成によるエレクトロニック版の九重奏である。構造は以前取り上げた「Tokyo Sextet」と似たピッチが徐々にシフトしていくものである。ラドゥは今年になってb-boim recordsという自身の作品をCDRで販売するレーベルを始めた。プレス数を見ると24枚やら6枚限定と極端に少ないが、これは一回の量産表記ではないだろうか。恐らく受注できるだろう。国内ではヒバリ・ミュージックがディストリビュートしている。未確認だが既に十数種のエレクトロニック版の作品がリリースされているようである。数枚聴いただけだが、どれも素晴らしい内容である。

”Maison.House II.V” J.L.Guionnet&E.L.Casa

omay_yad2007-02-28

タイトル:"Maison.House II.V"
アーティスト:Jean-.Luc.Guionnet&Eric.La.Casa
レーベル/番号Vert Pituite LA BELLE/Vp0301
制作情報:CD・2001年・フランス

このCDはジャン・リュック・ギオネとエリック・ラ・カザが南仏地方のドロゴーニュ、アルデシェ、ドロームに位置する5つの家屋で演奏・録音された共作である。ギオネは家屋の各部屋でサックスを吹く。ラ・カザはそれをマイクで録音した作品である。トラックの冒頭には各部屋で発音された短い声とサックスのロングトーンを15秒ずつ編集したものを収め、その後各部屋あるいは家屋外でのギオネの音を録音を収める構成となっている。ギオネが語るところでは、南仏は所謂フランス文化とはかなり違い、どことなく中世の農耕文化や異端宗派の残り香が漂うような一種独特な文化圏であるという。ブックレットには広大な山裾に抱かれた家屋の写真が載っている。当然演奏の音だけでなく周辺の環境音や生活音、住民の会話や家にまつわる語りも収められている。ドキュメントかというとそうではなく、音響測定のような冷たい印象は無い。ここには非常に豊かな時間と空間が流れている。ギオネのサックスも聴きごたえがあるが、むしろそれは背景に逆転し生活とその時間が静かながら圧倒される存在感を持って正面に表われる。しかしそれはギオネの音によって引き出される。この演奏と記録の関係、ここで聞こえる響きを「実験音楽」と括って批評眼に晒してしまうことしたらそれは愚行である。家屋の場所によって響きは変わる。家屋の内部にも地方とその歴史があるということか?ここに収録されているものは、空間と時間の方言である。

【新譜紹介】”Fields” Jason Kahn

omay_yad2007-02-11

タイトル:Fields
アーティスト:Jason Kahn
レーベル/番号:cut/cut019
制作情報:CD/スイス/2007年

ジェイスン・カーンはドラマー/音楽家であるだけでなくインスタレーションや絵画も手がける。この作品は自身のレーベルCUTから出された2005〜06年間の録音集である。曲は均一に持続音が続く内容だが、そこには数種類の音が重なっている。その各層が少しずつフェード・イン/アウトしていくので音響の多層構造が見えてくる。ドラムの音や電子変調された振動、フィールド録音素材が4、5層重なっている。これは絵画のマチエールを眼で体験するようだ。ここに収録されている各曲の音響は空間的ではなくオールオーヴァーな絵肌を意識させる。抽象画の表面に近づいてどのように画家が塗っていったのかそのプロセスを見ることに似ている。曲の時間的構造はワン・コード的な単純なものだが重なり合う垂直構造は複雑である。各音響の推移に注意を払って聴くと平面的な広がりとミックスによる音楽の変化が聴こえてくる。彼は自身の画家の眼によってこの作曲を行ったのだろう。
CUTの全てのジャケットはジェイスン自身のシルクスクリーンによるものである。

音盤随想<Sim・ライヴ・日本の音楽シーン>

omay_yad2007-02-10

Simは大島、大谷、植村の3者による斬新なリズム解釈を持ったバンドである。そこに歌手であり女優であり画家でもある佳村の声や歌が絡む。先日渋谷で彼等のライヴがあった。ファンクの匂いがする大島のギター、大谷の電子音、両者が扱うラップトップの音源には厭世観を匂わせる軽薄さは皆無で、むしろ鍵盤楽器と見做すことできる。そして何よりも植村の超絶ドラミングが音楽を生々しくする。このドラマーの音は驚くべきことに常に一本のスパイク信号のように空間に静止ながら正確かつ変則に時間を刻む。まるで懐中時計のメカニズムのようである。そして佳作の声や動作、その存在が音楽をより生々しいものに変えていった。ふと考えると日本の音楽シーンは今、非常に興味深い様相を呈しているのではないだろうか。Sim、テニスコーツ、オプトラム、POPO、ホース、MUMU、サイトウエレクトリコグッドサウンド、ONJO、スッパマイクロパンチョップ、アナロジック、Gnu、Funnychair、TAMARU、どらビデオ、イトケン+小島剛、ばきりノす、ハコ(ホアヒオ、Ash in The Rainbow) 、今井和雄トリオ、秋山徹次、中村としまる、大蔵雅彦、杉本拓、宇波拓とヒバリ・ミュージック関連の作曲家・演奏家陣、吉田アミ、utah kawasaki、ヒカシュー(復活!)、ダブ平(大竹伸朗)、浅野達彦、アウラノイザズ等など 
バンド・ユニット名だけ列挙してみても(いや、まだまだ存在する!)このバリエーションには驚くべきものがある。もはや個性の爆発と呼ばれたブリティッシュ・ロック黎明期を超え、先カンブリア紀の進化を見るようである。音楽好きの他国からの旅行者がこれらの演奏家を眼にしたら「日本は大変なことになっている!」と興奮して友人に報告するのではないだろうか。しかし所謂メジャー・シーンにはそのような動きは無い。幸か不幸か、列挙した演奏家陣は経済とはあまり縁がないところでの活動を余儀なくされている。それゆえに自由なのだ。各自何の気後れもなくやりたいことを妥協せずやっている。私たちはこの幸福に気づくべきである。やはり行ける範囲でライヴに通い直接耳で眼で体験すべきである。いくらハイファイに録音したとしても、植村のドラミングのダイナミズムはシリコン・プレイヤーからは伝わらない。もしその差が聴き取れなくなってしまったとしたら本末転倒である。時に音盤を置いてライヴに行くべきだ。生きて生まれる音楽を体験すべきだ。

Sim featuring Kamura Moe
"common difference"
MIDI Creative Co,Ltd
CXCA-1199
2006

”Radial” nikos veliotis

omay_yad2007-02-02

タイトル:Radial
アーティスト:nikos veliotis
レーベル/番号:Confront/confront 13
制作情報:CD/ギリシャ/2003年

もしかしたら「楽器」そのものが「楽譜」なのかもしれない。チェロ奏者のニコス・ヴェリオティスのこのアルバムを聴くとそんな想像が頭をよぎる。オープン・チューニングの弦に古楽器用の緩く張られた弓による持続音が3トラック収録されているが、どの録音もマイクを楽器に接近させて録音されているため通常のチェロからは聴くことができない様々な音が収められている。非常に生々しい音であり、徹底された演奏を聴くと「深い」といった抽象的な言葉が思いつくが、それは正確ではない。むしろ「明白な」と形容すべきだろう。ここで聴かれるのは楽器そのものが持っている固有の音である。弦の張力の関係、共鳴、摩擦、材質、手触り、重さ、形状、色彩、匂い、それらが分かち難い塊となった出来事が「楽器」なのである。チェロの一部を、例えばプラスチックや金属素材と取り替えたら結果の響きも変わってしまう。いや、このように構成要素に分割して考えること事態が間違っているのかもしれない。それは楽譜を細切れにすることと同じである。
recorded in athens,june 1st 2003 at lego studio by cotic k.