Carlfriedrich Claus “Lautaggregat”

omay_yad2005-10-19

■独のカールフリードリッヒ・クラウスは声とドローイング、版画のアーティストである。仏のアンリ・ショパンと同様に声のフェティシズムとも言うべき録音作品を制作するが、ショパンと異なるのは、生々しく粗野な即興演奏のような部分だ。彼のドローイングは自動書記のような自由奔放な走り書きが緻密に行われた絵画的なものである。ある版画集に載せられたドローイングの展示風景では、透明なアクリル板に描かれたものが天井から吊るされ、互いが透過して見えるようになっていた。このCDも同様に、あらかじめ録音された音響を四方八方から再生しバイノーラル・マイクで収録したものである。動物の咆哮のような奇怪な響きが執拗に繰り広げられる。彼のドローイングには文字も登場するが明解に読めるものは少ない。時にはヘブライ語や漢字も登場する。彼の音響も意味を失った声のような、解読しがたい原始的な声という印象を受ける。コミュニケーション空間では声から意味を消すということは矛盾であり不可能なことである。他の生物でさえ発する声には何らかの役割が必ずあるはずだ。意味のない声とは、意味が読み取れない言葉のことであり、意味の存在しない声とは藝術の世界にしか存在しないだろう。あるとしたら、相手に伝わらず音と見做されてしまった声や、何らかの健康的な問題等によって言葉として聞き取られず意味を成さない声と見做されるもの、強烈な刺激から言葉に翻訳されずに溢れて出た声ぐらいしかないだろう。いや、それらですら断片的な意味を見出せる。言葉は使用する本人の「意図」と他者の「見做し」によって保たれている社会のツールである。言葉の解体をコミュニケーションに持ち込めば、ただちにそれ自体を崩壊させ狂人と見做されてしまうだろう。彼の粗野な声の塊は言葉を純化し象徴的に扱う詩作とは正反対の作業かもしれない。藝術行為の内部とはいえ、彼のように声を言葉と音の狭間で検証することは文化的に見て窮めて特殊な作業であると言えよう。まるで紙幣を皺くちゃにして彫刻を作っているかのようである。
WDR 001-95-CC (r)WDR 1993 (c) Carlfriedrich Claus■