John Cage nova musicha n.1

omay_yad2005-10-21

■欧州大陸の音楽には欧州の伝統が根ざしている。シュトックハウゼンメシアンに代表されるような、中心性を持った楽曲にはその伝統が反映されている。よく言われるところだが、例えばキュビズムには透視図法的な遠近法は無くなったが、そのタブローには構成主義的な中心が設定されていた。ある部分で伝統は刷新されたかもしれないが本質的にそれは「移行」に過ぎなかった。そこに歴史の浅い、新しい国アメリカからミニマル・アートのように即物的な発想で作られた藝術作品には欧州のような中心性は無かった。そこには構成単位が並列した結果できあがったような全体像があった。これが欧州の眼に新鮮に写ったことは容易に想像できる。ケージは即物的な発想だけでなく、禅からデュシャンまで持ち出してくるのだから場外ホームランのようなものだったかもしれない。当時の政治状況ゆえ左翼思想を強めたCRAMPSが新たな音楽の創造性を彼に求めたのは当然の成り行きだったかもしれない。そしてここに優秀な録音が定着された。特筆すべきは「4’33”」だろう。これは3つのパートのある器楽曲である。
(30” / 2’23”/ 1’40”)
ここでの楽器はピアノだが、もちろんピアノは演奏されない。しかしこの録音にはパートごとにピアノの蓋の開け閉めの音が収録されている。ボリュームを上げると録音スタジオのハム音も微かに聞こえる。この曲は何も音がしない4分33秒間という作品ではなく、演奏会場の環境音を聴くだけの作品でもない。当初は純然たる器楽曲だったのである。楽器と演奏者があって成り立つ「演奏」であって音が無ければ良いというのでは何の意味もない。演奏家を用意し楽器の前で録音されなければならない。そして聴かれなければならない。この作品のアイデア的な部分の安易な一人歩きは危険だ。
もうひとつ、ここで素晴らしいのは、アレアのヴォーカリスト、デメトリオ・ストラトスの声による演奏である。「Sixty-two mesostics Re Merce Cunningham」でのデメトリオの野生児のような声は強烈である。もはや歌や声という表現を超えた凄まじい音響である。キャシー・バーベリアンやジョアン・ラ・バーバラのように声を楽器と捉えた演奏家は多くいるが、彼の音圧を超える者はいないのではないだろうか。夭折したのがつくづく惜しまれる。これは楽曲のバラエティーに富む親しみやすいアルバムである。名曲「マルセル・デュシャンのための音楽」のプリペアド・ピアノの余韻は筆舌に尽くしがたいものがある。
Cramps (c) 1974 Distributed by Artis Records CRSCD 101 (c) 1989■