Murmurmania

omay_yad2005-10-31

■このCDの作者Phil Edwardsはメルボルン在住の画家であり、アマチュア楽家である。これは彼の初めてのピアノ演奏を録音スタジオで1時間収録したものである。何の準備もなくいきなり弾いた演奏は音楽になっていない。ただの出鱈目である。しかし彼はこれを無謀にもCDにすることを決断し、1000枚もプレスしてしまった。彼は兎に角精力的に制作する作家で、絵画や彫刻作品もスタイルに固執せず次々と作っていくタイプの作家である。それ以外に、いくつかの音楽プロジェクトも運営している。本腰を入れているものにANDがある。このコンセプトは、「ビジュアル作家たちによるリハーサルなしの即興演奏」である。即興といってもフリー・インプロのようなものではなく、チープなリズムボックス付きキーボードにサイケなエレキ・ギターなどが絡むポピュラー音楽である。このプロジェクトはLAFMSのような、あるいはサン・ラのような音楽のものもあり、その筋の通には楽しめる内容である。
しかしこの「Murmurmania」はそれらと比べて、強いて言えばアートのジャンルに入るのかもしれない。彼の制作のメイン・フィールドはペインティングである。のびのびした形態が弾ける色鮮やかな絵画である。なぜこのようなCDを大枚叩いて作ったのだろうか。その絵画作品を見ると何となくだが、想像できる。
例えば一本の線のみによる絵、一筆書きには余白という概念は発生しない。線が引かれて終わるまでがその空間である。余白という概念が現れるのは、括られた面積の形態が2つ以上ある場合である。その2つの形態の間に余白が生まれる。その余白は更に大きな範囲によって取り囲まれている。それが画面の矩形であり、視覚の範囲である。画面の矩形を意識した途端、自由な空間はバランスの重力に縛られる。どこにどれくらいのものを配置しようか、と考えざるを得ない。バランスを意識して、画面秩序に従って絵画を作ることに不自由を感じてしまったとしたら、しばらくはどうしたらいいのか、分からなくなるだろう。絵を描くときの初期衝動、真っ白な画面にぐいぐい線を引く楽しさ、色彩が大きく広がっていくことの快楽に実は制限があったことを知らされる。自由に走り回っていたグランドに柵があるのを発見してしまった子供が、閉じ込められたような感覚に陥るのに似ているかもしれない。絵を描く者はそこで制作を続けていくと、別の観点から弁証法的な自由を獲得することになるのだが、常に自由であらんとすれば、その弁証法は心の底では認められないかもしれない。フィルがピアノをいきなり弾いたのは、時間の中に自由な絵画空間を見たのかもしれない。音が次々と現れる空間は一遍で視覚に納まる絵画には無い世界である。そしてその楽器にアマチュアであれば、音楽の脈絡からも逃れることができる。そしてCDのような半永久的なメディアに定着させてしまうことで標本のように固定され、作者の手から離れ完全に自由なものとなる。このCDは聞くともなしに空間に放つのが正しい鑑賞法かもしれない。
その後、彼の音楽活動はCD-Rで続けられている。どれもプレスは2、30枚単位だそうだ。しかしその制作量とバイタリティーは相変わらず尋常ではなく、ミニマル・ミュージック風のものから地元のヒップホップ・チームにキーボードで参加いたものなど縦横無尽である。ANDのいくつかのアルバムは本当に自由な響きに満ちておりエクスペリメンタル系を好まれる者には楽しめるものも多い。しかし残念ながら、その活動はメルボルン市内を出る機会には恵まれていないようだ。
copyrite P.Edwards 1997■