杉本拓 “Principia Sugimatica”

omay_yad2005-11-03

■このCDは杉本拓にとって新境地であろう。この作品での音と余白の関係は明解である。例えば1分間を3つに割ったポイント、20秒おきにギターの短い単音が入る。続いて1分間を4つに割ったポイントにギターの短い単音…という風にある秩序に従って時間を区切り音を配置した作品である。どの曲も分単位できっかり終了する。この演奏は特に楽器のテクニックが無くとも可能である。このCDの体験は、私たちに何を与えるのだろうか。強制的に余白を聞かされるのだろうか。それとも余白部分にリスニング・ルームの環境音を聞くように仕組まれているのだろうか。あるいは余白の美学を体験させようという狙いだろうか。恐らくどれも違うだろう。この音楽は、演奏者とリスナーは彼が設定した秩序に従うかたちになるのだが、その秩序に任せることによって常に纏わりついてしまう曖昧なものがきれいに排除される。時間の単位に沿って行われた作曲・演奏は主観的なものを排除し何の束縛を与えない。この音楽は演奏者、リスナーの双方どちらにとっても正しい定規のようなものである。リスナーと演奏者の立場の違いに重きを置くならこのような例えはどうだろう。この「音楽」を演奏家とリスナーの間に吊るされた1枚の画用紙だとする。その表側を見るものと裏側を見るものに場所の違いがあったとする。杉本がまず最初に提示したいのはそのどちら側の面でもなく、その紙を真横から見た時の直線である。その後各々眺めるべき席に着けば良いだろう。ここで杉本は「音」に向き合うのではなく「演奏」に向き合っているのだ。これまでの作品より概念的なアプローチである。もしかしたらそれは音楽に対する倫理学的な態度なのかもしれない。彼の演奏活動−それはオーディエンスのみでなくCDのリスナーをも含む−において通過したいところだろう。私たちもこれに向き合ってみよう。そこには爽快でクリアーな空間が広がっている。踏み込んで体験したいものは、ペンを取って音の出た瞬間の時間を書き出してみると面白いかもしれない。そして自分で、観客を用意して演奏してみると「真横から見た時の直線」が体験できるだろう。
a bruit secret 11 a bruit secret 2005■