ЮРИЙ МОРОЗОВ “Cherry garden of Jimi Hendrix”

omay_yad2005-11-27

"ВИШНЕВЫЙ САД ДЖИМИХЕНДРИКСА"
ユーリ・モロゾフソ連時代にソングライター兼シンガーとして活動していた。彼はペレストロイカ以降アルバムをリリースしているが、それ以前は様々なバンドに楽曲を提供していた。1980年にリリースされたЯБЛОКО ヤブロコという民謡ロック・バンドのファースト・アルバム(КВАДРА КА90-14435-6 メロディヤの珍しい4chレコード)に彼の名前のクレジットがある
ソ連では純粋に激しいロックを演奏することは難しかったようで、独創的でロック色の強いものには必ずといっていいほど民謡のアレンジの楽曲を採用している。公にРОК ГРУППА(Rock Group)という言葉が公認されるのには80年代に入ってからである。それまでは所謂ロックバンドは「ВОКАЛЬНО-ИНСТРУМЕНТАЛЬНЙ АНСАМБЛЬ Vocal and Instrumental Ensemble(略してВИА=VIA)」と呼ばれ、ジャケットには必ずそのバンドの統率者(Художественный рукодитель)の名前が記される。ジャズを含め大衆音楽はЕСТРАДА、軽音楽と呼ばれていた。
このレコードは音楽業界に携わっていたモロゾフが手に入れた録音機材で70年代中頃に数名のミュージシャンの協力を得て自宅録音されたもので、基本的にSSWスタイルだが、非楽器を伴った奇妙なアンサンブルにテープイフェクトで音像が揺らぐ驚くべきアシッド・サイケに仕上がっている。まるでシド・バレットファウストが合体したかの様である。当人も発表することができないことを理解した上で制作していたもので、音質もデモ録音並である。恐らくこの音質はダビングを繰り返して劣化したものだろう。その時代に正規リリースされていた他のVIAバンドとはかけ離れており、どうしてこのような内容になったのか見当がつかない。西側のサイケデリック・ミュージックの影響だけでは考えにくいサウンドだ。
現在ではロシアを代表するソングライター、シンガーのАЛЕКСАНДР ГРАДСКИЙ(アレクサンドル・グラダスキー)は71から74年の間にСКОМОРОХИ(スコモロフィ)というバンドを引き連れてハード・プログレッシヴの演奏をメロディヤのスタジオで吹き込んだが、それらはEP盤に縮小されてしまった。全貌がLP"РАЗМЫШЛЕЦЯ ШУТА"(C60-26447-8)となって陽の目を見るには13年の歳月が流れた。音楽に検閲が入ることは実際に時々あったようで、60年代後半ではСАМОЦВЕТЫ(サモツベティ)のデビューEPとファーストアルバム(Д034227-8)に収録されていた「ШКОЛЬНЫЙ ВАЛ」という曲は学生時代のお別れダンス・パーティでの男女を歌った曲が「歌詞が悲しすぎる」という信じがたい理由でその後出たステレオ・バージョン(C-004445-6)ではカットされている。ジミ・ヘンドリックスはドラッグとの関連により退廃的なミュージシャンと認識されていたようで、その音源は輸入検閲されていたそうだ。しかしグルジアのВИА75というバンドの2nd "РИТМ РАДОСТИ"(C-60-155837-38 (c) 1980)にはジミの曲がカバーされ、クレジットもキリル文字で彼の名が書かれている。これは現地のコレクターも驚愕の事実だったようだ。
モロゾフのこの音源のような闇テープは、ソ連が西側へ輸出を公認した謂わば優等生バンド、МАШИНА ВРЕМЕНИ マシーナ・ブレーメニにも存在した。その78年頃のカセットは本国で90年代に2枚のLPになっている(“ЭТО.БЫЛО.ТАК.ДАВНО…ЗАПИСЬ 1978”)。こちらも他のВИАサウンドとは異なりブリティッシュ色の強いものである。この他、エストニアのRuja ルーヤもLPが出る前にはツェッペリンのカバーを演奏したカセットを自主出版していた。
不幸にも陽の目を見ずに葬り去られた自主録音がたくさんあったことだろう。そこに一体どんな音が収められていたのだろうか。
鉄のカーテン」の向こうから漏れてきた響きには興味が尽きない。
その中で一番強烈なのは、今のところ、このLPである。

因みに他の東欧諸国でのロック事情はどうだったかと言うと、
東ドイツでは72年頃にRockという言葉が公認された。60年代後半から70年代中番までこの国はロックバンドは他の諸国と比べて少ない。
チェコではプラハの春の68年に国営Supraphonからリリースされたビート・バンド、The Matadorsの2nd(SUA ST53992-stereo)の英文ライナーにRock’n’Rollという文字がしっかりと載っている。他にもJimi HendrixやThemについても情報が載っているので、何らかの方法である程度は西側の音を聞くことができた様である。このLPにはBob Dylan、John Mayall、 Hawling Wolfのカバーも収録されている。A面のラストはPink Floyd「星空のドライヴ」の中間部のようなトリップ・ミュージックが聴ける。
一昔前に「チェコではロックを演奏しただけで逮捕される」とか「ロックを語るだけで投獄された」など根も葉もないデマが流れていた。恐らくPlastic Peopleのことを拡大解釈したのだと思われるが、Mothers of Inventionの曲名を冠し露骨に反体制の態度を取った彼等は特別であろう。体制へのアンチな態度は多かれ少なかれどの国だって弾圧された筈である。チェコには70年代初頭に活躍したロック・バンドも数多く存在する。Synkopy 61は10インチLP"Xantipa"(Panton 22 0414 (c) 1973)でUliah Heepの「対自核」「イージーリヴィン」をカバーしているし、FramengoのまるでAreaのような骨太サウンド(Supraphon 0 13 1287 (c) 1972)、怪しいサイケ・サウンドのPetr Novác- George and Beatoens“Ve Imenu Lásky In name of love” (Panton 010287 (c) 1972)、ハード・ブルースのModrý Efekt(Blue Effect)の1st(Supraphon 013 0689 (c) 1970)など西側に全く引けを取らない。
ポーランドには元気のいいビートバンドが多数存在する。ショパン生誕地ということもあるのだろうか、音楽には寛大だったようである。またこの国はジャズも盛んである。
ルーマニアでは60年代後半にビート・ムーヴメントが盛り上がっていたようで、西側のミュージシャンが演奏しに来ていたようだ。しかしRockという言葉は76年になって初めてが大きくジャケットを飾ることになる。ルーマニアブルガリアではバンドは編成=フォーメーションと称しておりブルガリアの公認バンドФСВ(FSB)はFormation Studio Balkantonの訳である。ブルガリアも70年代あたりまでロック・バンドは少ない。
ユーゴスラビアは東欧色の中で最もロックに寛大だったようだ。女性のヌード写真がジャケットにしばしば登場する。
ハンガリーでは民謡ポップスの磁力が強いがOmegaやLokomotiv GTのような西側に進出したバンドも存在する。
どの国も一応にパンクは輸入されなかったようだが、共産圏崩壊後その手のバンドも増えた。しかしどちらかと言えばメタルが好まれたようで80年代終わりからはどの国にも特徴の乏しい明るい音のメタル・バンドが台頭した。

Л93-0009
(c) 1993 COBWEB RECORDS САНКТ-ПЕТЕРБУРГ