観世流謡曲百番集⑧「善知鳥」

omay_yad2005-11-30

このカセットは20年以上前に能楽堂などでよく売られていた。
これは一般人が趣味で謡をやるための鑑賞および練習用のものである。能で扱う物語は旅人や僧侶が亡霊と出会いそこでメッセージを受け取りその霊を弔う物が多い。この「善知鳥(うとう)」という能も同様である。ある狩人が、ツガイでいることが多いため夫婦仲が良いとされている善知鳥を殺したため、死んだ後にあの世で責め苦に遭っているので自分を弔ってほしいという願いを生きている妻子に願うものである。
謡のトレモロを効かせ非常にゆっくりとした独特な歌い方は、初めて聞くものに奇妙な印象を与えるだろう。数名で謡うところでは各々のトレモロのタイミングがぴったり揃っていて驚かされる。有無を言わせぬ圧倒的な声である。声そのものがまるで物質のようだ。
現在の形式が確立される前の能の演目時間は、現在の約半分だったそうだ。恐らく声の調子は全く異なっていただろう。あの発声では速く歌えない。なぜ減速して今日のようになったのだろうか。
ある事柄の形式が確立され、社会的に広く認知されてくるともったいぶった態度が求められるようになる。芸術作品においてその傾向を見ることは容易い。例えば声明のような宗教芸術や民族的なカリグラフィーなど、永い歴史や権威が認知されているものの場合、そこに必要以上の所作が加わり、伝えるべき情報の流通に延滞を与えることである。能の場合、謡の言葉(セリフ)が聞き取りにくく変調されることである。
これは決して芸術至上主義的な欲求によるのではなく、形式が安定し、空洞化したことに対する新たな一歩だろう。形式そのものを形式によってなぞる行為である。
最近の音楽で喩えればEarth やSunnO)))あたり実験メタルが当てはまる。彼らはブラック・サバス等のハードロック・スタイルの核たる要素の「リフ」を極端に長大化している。ヘヴィーメタルに必需品の筈のドラムを欠き「リフ」だけを抽出したあの音楽は、新たなミニマル・ミュージックと言えるだろう。ラ・モンテ・ヤングが「インド音楽」を自らの音楽のイディオムとして採用したのと同じである。明らかな相違点は前者はミニマル・ミュージックがすでに存在した上での解釈である。ラ・モンテ自身、既成のミニマルをやろうと思った訳ではない。これから実験メタルがどのように発展していくのか興味深い。
シテ:観世元昭
ワキ地頭:谷村一太郎
ツレ:木月孚行
地謡:武田宗和
CNT-505
東英サウンド・ファミリー
録音・製作キングレコード株式会社