復刻・越中おわら節名人競演集 富山県民謡おわら保存会

omay_yad2005-12-02

民謡とは一体どういうものだろうか。
どこの国にも民謡と呼ばれるものがあり、どの地域も似た響きがある。この夜を徹して行われる歌と演奏と舞の静かな祭りはそもそも台風の被害を避ける願いを込めて始まったものだったそうだ。胡弓が使われているせいでギリシャの民謡に酷似している。胡弓の旋律からそう感じられたのだろう。逆にギリシャ民謡からフィドルを取り去ったら日本民謡に酷似するということになる。いや、ここで聴かれる胡弓のトレモロ中央アフリカの民謡の様でもあるし、もっと近い中国のそれにも聞こえる。どこの国にもあっておかしくない音楽である。三味線や太鼓の音、歌声から日本の音楽であることは誰にでもわかるが、楽器を置き換えたら一遍に国籍不明になるだろう。

アイルランド民謡もトルコ民謡、白ロシアの民謡、北欧民謡、アラビア民謡、ネイティヴ・インディアン、ヒンズーの音楽、その他ほとんど全てが歌い方には日本で言うところのコブシを効かせた歌い方、その伴奏楽器は単旋律でそれをなぞって奏でられるパターンが多い。民謡は音楽の形式なのだろうか?それはローカルなところから発信されたものだ。様々な地形や気候、環境の差があるのに共通の形式がある筈はない。もちろんこの問いは結果論的な発想から出たものである。そもそも雑多に民謡と括られているものに本質を求めるのが間違っているのだ。

トルコには日本の長唄のルーツである「オユン・ハワズ=長い歌」という形式がある。尺八はたどっていけばブルガリアのあたりに行き着くというし、琵琶はアラビアのリュート、ウードが原型である。歌の旋律はタイやモンゴルの民謡に恐ろしいほど似ている。三味線に似た三弦の楽器はアジア全般に広く分布している。地形に沿って音楽が伝わってきたという考えは理解しやすい。地理的な観点と諸民族の移動による軌跡を追うことで、ある程度音楽の類似性に対して納得できる検証ができるだろう。完璧な検証にはならないが…

古いものほど広い地域に存在する。これは物理的な事象である。大きなたらいに次々と異なる種類の小さい粒を投げ込み、それを継続して揺すると一番最初に入った粒は後に入った粒より広い範囲に分布する。これと同じ理屈で、民謡が最も古い音楽の形式だとすると、どこにも同じような音楽があるということにある程度の納得できる。

ヒトの生活圏は地理的差はあれ極端には変わらないだろう。山が在り水辺がある。そこで生活をしていれば、どこも似た音楽が在るのは不自然なことではない。
時に地形の類似と楽器や音楽の類似の例がある。チベット密教のドゥンチェンとスイスのアルペンホルンは音の響きこそ異なれ楽器の形態は似ている。どちらも山岳地帯である。しかし山岳地帯だから極端に長いトランペットを吹きたくなる、というのもおかしな話である。酸素が薄いところではむしろ不自然な行為のように思える。山の遠くまで反響させるためだろうか。あるいは身体的生理的な理由で高地において特有の肺の活動が起こり合理的に発音がなされる、ということがあるのだろうか。
音楽の形態を吟味するときヒトの体の構造も考慮すべきかもしれない。
ある地形でヒトがある楽器を演奏したくなる理由が、もしかしたら歯や顎骨、鼻腔、咽喉空間や内臓器の形態に因って起こる可能性はないだろうか。体内空間も地形と同じ位相として音楽の形式を考慮する要素に成り得るだろう。音を発するにはヒトの身体である。その身体は生活様式に延長されている。
そうであるならば、民謡に共通の本質を問うことができるかもしれない。これは荒唐無稽な考えだろうか。

このCDはかつてレコードとして出版されていたものの再発である。
このような保存会が出した録音にはずれはない。5曲全てがおわら節のヴァリエーションで素晴らしい演奏である。静かな反復が緩やかな高揚感を誘う。特に古謡で歌われる山田弘三の声は凄まじい。

財団法人ビクター伝統文化振興会
Victor
VZCG-312