あとがき

omay_yad2005-12-04

ミッシェル・フーコーの著作「言葉と物(渡辺一民佐々木明訳)」の序文に古代中国の百科辞典に当時の動物の分類が書かれている。これはホルヘ・ボルヘスの著作に書かれていたものだという。

「動物は次のごとく分けられる。
a:皇帝に属するもの
b:香の匂いを放つもの
c:飼いならされたもの
d:乳呑み豚
e:人魚
f:お話に出てくるもの
g:放し飼いの犬
h:この分類自体に含まれているもの
i:気違いのように騒ぐもの
j:算えきれぬもの
k:駱駝の毛のごとく細い毛筆で描かれたもの
l:その他
m:今しがた壷を壊したもの
n:遠くから蝿のように見えるもの」

古代というのがいつの時代だったか現在著作が手元にないので不明だがこの「分類」そのものが私たちと共有できないものであることは間違いない。太古の時代に進化論など通じるはずはない。しかし、それにしてもこの分類を理解するのは困難を極める。
b、c、e、f、g、i、jは何とか理解可能である。しかしhとlはこの分類を破綻させている。大体、順番の途中にhがあるのがおかしいし、lはこの分類そのものを無化させている。これではまるでクラインの壷である。aや f 、kやmは何か他の脈絡があるものだろう。言葉通りには受け止められない。しかしdが特殊な存在であるとも考えにくい。成長した豚は一体どこに入るのだろうか。
何とか読み取れる事は、学術的な分類ではなく主観的あるいは体験的な事柄からなされたものであろう、ということだけである。

音楽のジャンルを考えるとこの奇妙な分類とさして変わらないことに気づく。
エレクトロアコースティック、ノイズ、インダストリアル・ミュージック、ドローン、サイケデリック、フリーフォーク、ラップトップ・ミュージック、クラウト・ロック、ブルティッシュ・ロック、デスメタル、ヒップ・ホップ、ソウル、レア・グルーヴ、ラウンジ、カンタベリー系、スワンプ・ロック、アシッド・フォーク、パーガン・メタル、スムース・ジャズ、イージー・リス二ング、アンビエント・ミュージック、演歌、民謡、歌謡曲、古典音楽、ニューウェイヴ、フュージョンプログレッシヴ・ロックスラッシュ・メタル、ノーウェイヴ、ウェストコースト、サザン・ロック、エスニック、ローファイ、辺境モノ、ゴシック系、エレクトロニカ、パンク、テクノ、デトロイト系、産業ロック、歌モノ…
これらを1000年後の翻訳ソフトに入れたらどうなるだろう。


ディスク・レビューは、辞書のようなものがひとつ在れば事足りるはずだ。それは博識の人間がそれらの音楽の時代背景や影響を客観的に検証して書けばよいのである。
私たちが求めるレビューのエクリチュールの愉しみは書き手の混乱にある。ならばいくつか新たな混乱を付け加えてはどうか、ということで以下のことを念頭において書いていった。
1:事実確認より「解釈」を積極的に評価すること
2:徐々に本文が他へ逸脱する
3:音のない部分をどう読むか
4:部分や作品の背後の強調
5:広範囲でありながら偏りがあること
6:喩えや論理性に空間的なイメージを導入すること
7:地形と音楽の関係についての描写
8:一枚しかない共有できない音盤についての描写
上記の大体を網羅できたが、アイデアはあったが実現できなかったこともある。パターン認識による音の体験からの音楽レビューが難しくて書けなかった。終盤になって遠近法の解釈を取り入れる可能性が閃いたが時間切れであった。これらが悔やまれる。

このように列挙し、取り上げた音盤を省みると古代中国の分類が何となく理解できた気になる。また終わってみると大学時代に読んだバルトの「第3の意味」での分析が影響しているような気もする。

この「音盤たち」は、「はてな」のサービスで製本し、自分のレビュー本を作りたい、という欲求が最大のモチベーションで開始した。
もうひとつ理由がある。
実験シーンにおいて様々な要素のパッチワークがようやく限界を表し、自在な展開の可能性が問われ始めた。しかしそれに反比例して発表場所や書籍が少なくなっている。その参考に成り得る面白い音盤がいつまで経っても無視され続けていることにも納得がいかない。まずは知られなければ始まらないので、自分なりに解釈を加え色々書いてみるのも悪くないだろうと考えた次第である。

針を下ろした(再生ボタンを押した)瞬間に勢いよく音が流れ出すものだけが「楽しめる音楽」ではないということは、私的な気晴らしだけでなく、いくらか主張できたかもしれない。
アーティストからは聴く側への果敢な挑戦が求められている。うかうかしている場合ではない。
(Omay_yad 2005.12)