“ein(e) ausführende(r) seiten 218-226” Manfred Werder

omay_yad2007-01-01

タイトル:"ein(e) ausführende(r) seiten 218-226"  
アーティスト:Manfred Werder
レーベル:Edition Wandelweiser Records
シリアル:EWR 0601
制作情報:CD/2006年/ドイツ
Realisation:Antoine Beuger

Manfred Werderは現在、最も先鋭的な作曲家グループ、Wandelweiser楽派に属するチューリッヒ在住の作曲家である。このCDは再生装置のヒスノイズに埋もれるくらいの5、6秒の小さなホワイトノイズが10数秒おきに入る72分の作品である。タイトルの最後についた番号から察すると、このCDに収録されたものは作品の抜粋のようである。この楽曲の全体像は膨大な長さである。録音時間をメディアに合わせたら全ての音楽は80分くらいで(一旦)区切りのつくものになってしまう。彼はケージの静寂、沈黙という言葉から作品を展開していると思われるが、演奏や楽曲のあり方に関しては、よりラディカルである。彼には「2005 1」という作品がある。この曲のスコアは何と「場所 時間 (音)」という3文字だけでが記されている。その他、何の条件付けや設定指示もない。どうやってもいいし、何もしなくてもいいのだろうか。ここで彼の意図を考察してみよう。ある場所を任意に選ぶ。場所とは何か。何を持って場所とするのだろうか。時間とは何だろう。演奏の長さのことだろうか。それとも選んだある場所に流れる時のことだろうか。(音)とは何だろう。カッコに入っているのは何故だろう。任意の場所や時間には何らかの音はしている。その場所にそのままある音のことだろうか。この作品は、ある場所を選んで任意の時間その場所を聞く、ということだけではないだろう。そこまでは、別の作家によって既に数十年前に試みられている。音とは物体のように存在するものではない。要は聴くこと、だろうか。これも誰かがやっている。具体的な条件や設定を一切記さないということは、そのこと自体を考察し、各自が暫定的な決定を下すことを促しているのだろう。場所も時間も音も、よく考えると実体があるようで曖昧である。現代音楽的思考をキャンセルして、素朴に考えるべきだ。「2005 1」という作品に対して、演奏を無条件に前提にしてしまったらそれは既に持ち合わせている色眼鏡で覗くことになろう。私たちは戸惑いながら受け止めるしかない。即時に結果を出す必要はないのかもしれない。このアルバムもそのように受け止めるべきだろう。聴こえるかどうかわからない音、全体の長さが不明な作品、その存在感とはどのような意味を持つのだろうか。ここでは恐らく聴くこと以上に作品に向き合うことが促されているのだ。