杉本拓 “Live in Australia”

omay_yad2005-10-09

■杉本拓は妥協の無い意義深い仕事を続けている。この2枚組みライヴCDは2003年9月にオーストラリアで収録されたものである。Disc1は自身のギターによる「Dot(73)」である。これは長い沈黙の間に点のような音を置いていく楽曲である。極度に音楽的な要素を削ることで演奏と音との関係を探っている。このCDには彼自身が音楽と言葉の関係に触れた論考が付いている。
引用すると、『私達の社会的/文化的背景と、意識や無意識の中にある言語と言語化作用、音の種類や構造、個人的な嗜好、その他要因は色々あると思いますが、それらの緊密な関係から音楽だけを取り出すことは無理』である、と語り、『言葉や言語から「音」を引き離す』ことが完全には不可能なら、『言葉や言語化を戸惑わせたり、ためらわせたり、つまずかせたり、突き放したり、つまりお互いがリッチになるような関係』を発見すべきである、とする。その為に『フォルムの強調』を施された音楽、つまりこの「Dot」のような『それ自身の言語を作っているだけ』の演奏は『音楽をただそれだけの現象として独立させる』ことになり、『「音楽」と「言葉」、このふたつを孤立させるような状況を作って、その間にある複雑な関係に目を向け』させようとしている。そのためには『感覚的とされるもの(定義が難しいですが)から出来るだけ縁を切ろうとする覚悟が必要』であり『あいまいさは捨てなければいけません。』と語る。昨今の意欲的とされる音楽でさえ『それぞれの音楽が自らの形態や正当性を守るために、それぞれに対応した言葉を故意に引き出させ、それが音楽と言葉の自由な関係を閉鎖させている』ことに音楽家として危惧している。私たちはうっかりすると、早急な結論を求めようと言葉に群がり、表面に目立つ方法論に注意を向け、その本質を見失いがちである。また理解しがたいものをその作者の内面世界に押し込めようとする悪い癖も持っている。音楽に限らず藝術は私たちの共有財産である。それを受け止める側にも半分責任があることを忘れてはならない。このライヴ録音はMatthew Earleが会場にて録音したものであるが、急に振り出す大雨や、オーディエンスの足音、暗騒音、マイクの傍に不意に現れる何かが軋む音等と、杉本の会場の残響を伴った「点」が見事な遠近感を持って収録されている。楽曲は限定された寡黙なものだが、その演奏と演奏される環境との関係は驚かされるほど豊かで饒舌なものとなって浮かび上がる。
Disc2は日時と場所も異なり「Music for Amplified Guitar」という曲が収められている。これにも上と同様のことが言えるが、こちらはよりゆったりと空間に対峙した演奏で杉本のキャリアと自信のもとでなされた充実した演奏は、長大な無音を含む楽曲ながらも回を重ねて熟聴に耐え得る強度を持っている。
注:『  』内の文章は、杉本拓 “Live in Australia” のライナーノートからの抜粋である
Improvised Music from Japan IMJ-524/5 (p) (c) 2005■