”Live in Kansai” Taku Sugimoto

omay_yad2006-12-31

タイトル:Live in Kansai
アーティスト:杉本拓
レーベル:slubmusic
シリアル:SMCD 11
制作情報:CD/2006年/日本
all music composed by Taku Sugimoto

スラブミュージックのオーナーは杉本拓である。2006年はこれを含めRaduの"Tokyo Sextet"と"天狗と狐"の計3枚がリリースされた。このアルバムは彼の作曲集を大阪の複眼ギャラリーとトリトン・カフェで数人の奏者によって実演したものである。杉本の最近の作曲はいくつかのユニットとなる要素を組み合わせることが主眼とされているようだ。装飾を排除したシンプルな楽音による音楽はミニマル音楽のそれではなく、整数や化学記号の思い起こさせる。構成そのものを構成しているかのようだ。ひとつのユニットの配列が変わり、同時にあるいは時間差を持って奏でられると、そこに和声や旋律の様なものが表われる。これを音楽の要素と見做すことができるのは、私たちが既に培った文化的背景があるからだろう。ナイルのウード奏者ハムザ・エルディーンが初めて西洋のオーケストラを聴いた時、彼の耳には各奏者が一斉にチューニングを行っているようにしか聴こえなかったという。その訳はアラビア音楽には西洋音楽のような和声の概念が存在しないからだ。杉本の作曲は音楽でできることの限界を意識した上で、何が楽曲の内部で価値を生むのかを確かめる。一昨年は極端なまでに楽音を削ぎ落とし、何が演奏を成立させるものかを問いかけていた。このアルバムで聴かれる音楽はその後の問いかけである。ユニットの配列は新たな意味のポリフォニーを構成している。1曲目の「three guitars」は秀逸である。また、"天狗と狐"とこのアルバムは杉本自身のレポートのような位置づけもあるのだろう。録音は9月。2ヵ月後のリリース、つまり速報である。

”Tengu et Kitsune” Taku Sugimoto/Taku Unami

omay_yad2006-12-30

タイトル:天狗と狐 guitar duo
アーティスト:杉本拓・宇波拓
レーベル:slubmusic
シリアル:SMCD 10
制作情報:CD/2006年/日本
recorded at LoopLine,Tokyo May 12,2006

これは即興演奏の実況録音である。2人のギタリストの無為な会話のようであり、同時に個々の思索が伝わってくるような好盤と言えよう。即興演奏にありがちな丁々発止の刺激反応はここには一切無い。むしろ周到に作曲されている様ですらある。回りくどい説明になるが、ここでアクション・ペインティングのジャクソン・ポロックを例に挙げたい。彼は絵画の空間性を追及した結果、画面を床に置きその真ん中に立ち、エナメル・ペイントを筆に取り画布の上に垂らした。床からの高さの違いによってペイントの流れた形は変わる。アクションが絵画空間に時間の軌跡を残す。画布の大きさによってそのペイントのストロークのあり方が変わる。その結果出来あがった絵画は絵の具の暴発のように見える。これに「アクション・ペインティング」という言葉が付けられると、ポロックの空間に対する思索は失われ、絵の具の盛り上がりだけが取りざたされるようになってしまった。この傾向は我国で特に激しく「アクション」という言葉がまるで劇映画のニュアンスとなってしまった。即興演奏に関しても似たことが起きてしまったようだ。即興演奏の醍醐味は既成の音楽モードを一旦無しとして、演奏家同士が瞬時にどのように関係を作り上げていくかを公開することではなかっただろうか。ところが「即興演奏」という言葉が定着し半ばジャンル化すると、安易に誤読されてしまう例も少なくない。相手の音に反応していることで演奏家は安心し暗黙のパターン化された展開に終始するだけで、演奏と音の関係は空洞化する。即興であってもそこには何らかの(瞬間的な?)構造があるはずだ。組み合わせや手法を変えても根本は変わらない。この2人はそのことに批判的だ。即興演奏を封印したかのように見えたが、ここで再びこのような形を取ったとこは充分に注目すべきだろう。根本に立ち戻れば創造的な広がりはまだまだ充分に見出せるのだ。
杉本の余韻を抑えたタッチは集合と離散をイメージさせ、宇波は倍音成分を持たせたピッキングのバリエーションを展開する。先に書いた2人の自覚が空間と時間の広がりを音楽に変えている。

Radu Malfatti ”Tokyo Sextet”

omay_yad2006-12-28

タイトル:Tokyo Sextet(2005)
アーティスト:Radu Malfatti
レーベル:slubmusic
シリアル:SMCD 09
制作情報:CD/2006年/日本

「ラドゥ・マルファッティが2005年来日した際に用意してきた、エレクトリック・ギター、バス・クラリネット、ヴァイオリン、トロンボーン、エレクトロニクス(サインウェイヴ)x 2 のための作曲作品「Tokyo Sextet」を、宇波拓が全パートをサインウェイヴに置き換えて作り上げたもの。各パートは一定のピッチを持つが、楽章ごとにひとつのパートのピッチを一回だけ変えている」(Improvised Music From Japan CD shop解説から抜粋)
解説を読んでもこの作品を理解したことにはならない。無音の中で余韻の無い、低い霧笛が、間欠的に鳴るような印象である。しかしこの感想も本質を表現してはいない。これは「存在する音楽」と表現すべきだろうか、楽曲の佇まいそのものが音楽になっている。この作品はどんな環境や条件で再生されたとしても全く揺らぐことがない。 音の表情を聴くものではないので、特に集中する必要もないだろう。変な話だが、部屋で鳴らしてどこかにいっても構わないのかもしれない。自立した、そのものが在る音楽である。このことは抽象的な意味であり、サティの「家具の音楽」や「ヴェクサシオン」とも異なる文脈である。当然の如くBGMとして流すこともできない。美術に精通するものなら、60年代のカール・アンドレやリチャード・セラのミニマル彫刻作品と概念的に大差がないと考えるかもしれない。しかしここには、時間の流れによって作品フォーマット(音楽)が成り立っている。これはミニマル彫刻と異なる大きな要素である。
これはまさしく新しい音楽である。いや、新しい姿の音楽である。これに関しては誰もが的確な形容をできないだろう。あらゆる表現世界で多種多様な手法が混在し、斬新な形式も瞬時に了解される中、新しい姿を打ち立てることは容易なことではない。まずはあなた自身がその姿と向き合ってみるべきだ。

Novaia Liustra & Masahide Tokunaga ”NETORI”

omay_yad2006-12-26

タイトル:"NETORI"
アーティスト:Novaia Liustra & Masahide Tokunaga
レーベル:Novaia Liustra Edition
シリアル:NOV-001
制作情報:CD 2005年 日本

Novaia Liustra はMasayuki Yasuhara Yoshihisa Nakanoによるインスタレーションやワークショップ等を展開するユニットである。Nakanoはサイン波を、Yasuharaのテルミン、徳永将豪はアルトサックスを演奏している。ゆったりとした持続音による9分と21分の即興演奏である。NETORI「音取り」とは雅楽の最初に楽音を紹介する演奏のことである。3種の楽音は似ており一見判断しづらいが、聞き取れるようになると興味深い空間が表われる。まったく倍音のないサイン波、電子的な倍音によるテルミン、アコースティックで豊かな倍音を含むサックスと構成される楽器自体の波形が段階を持っており、これらが一斉に空間に放たれる。これを「ドローン系」と安易に判断すべきではないだろう。このような分類による納得はバーコード以下である。
Novaia Liustra の中野良寿は絵画を実践していたが、90年台初頭に英国に留学し、シュタイナー神智学を学んできた。発音には何らかの影響があるのだろう。徳永は東京をベースに活動を展開している若手演奏家である。最近は回を追うごとに腕を上げ、その展開に眼が離せなくなっている。

【新譜紹介】 ”composition for harp and sho”

omay_yad2006-12-25

タイトル:"composition for harp and sho"(2006)
レーベル:hibari music
シリアル:hibari-09
制作情報:CD 2006年 日本

player:rhodri davies(harp) ko ishikawa(sho)
composer:taku sugimoto masahiko okura antoine beuger toshiya tsunoda

4人のコンポーザーの曲をロードリ・デイヴィスと石川高が演奏。どの楽曲も、聴くことの快楽とは別の意図を持ったコンポジションが展開されている。まさに文字通り、時間と空間に音を構築するという点で四者とも共通している。

1曲目の杉本拓の「赤と青」は、オクターブの異なる同一ピッチの笙とE-bowによるハープの単音とそれによって表われる空白が少しずつシフトしていく作品。「どんな音楽なのか」という以前に「何が音楽であるのか」という問いかけに重きを置いた作品だと言える。普通なら単なる実験やジェスチャーに終わりかねないが、当人の追求姿勢によるものだろう、聴き応えがある。

2曲目はリード楽器の大蔵雅彦のペンによる「トルソ」。早いパッセージの笙と単音で間の多いハープが不思議なリリシズムを放っている。

3曲目はヴァンデルヴァイザー楽派のアントワーヌ・ボイガーの「three drops of rain/east wind/ocean」。録音時、スタジオのドアは開け放され、笙はそこから数メーター離れたところで鳴らされる。そこに抑制されたハープの音色が響く。この遠近感が楽曲の大きな構成要素である。

4曲目は角田俊也による「strings and pipes of same lenght float on waves
僅かに周波数の異なる2つのサイン波が再生される中、同じ長さの笙の管とハープの弦が同時に鳴らされる。それを精密なゲート装置に通し、一定の音圧以下をカットしたものが楽曲として収録されている。これによって4つの音の干渉によってできる波の揺らぎが取り出される。左右のチャンネルにはゲートから出た音声信号は+側と−側に分けられているため歪んだ音に聞こえるが、両チャンネルをモノラルにミックスあるいはスピーカーを2つ向かい合わせると波形が整形され音色が変わるようになっている。

あとがき

omay_yad2005-12-04

ミッシェル・フーコーの著作「言葉と物(渡辺一民佐々木明訳)」の序文に古代中国の百科辞典に当時の動物の分類が書かれている。これはホルヘ・ボルヘスの著作に書かれていたものだという。

「動物は次のごとく分けられる。
a:皇帝に属するもの
b:香の匂いを放つもの
c:飼いならされたもの
d:乳呑み豚
e:人魚
f:お話に出てくるもの
g:放し飼いの犬
h:この分類自体に含まれているもの
i:気違いのように騒ぐもの
j:算えきれぬもの
k:駱駝の毛のごとく細い毛筆で描かれたもの
l:その他
m:今しがた壷を壊したもの
n:遠くから蝿のように見えるもの」

古代というのがいつの時代だったか現在著作が手元にないので不明だがこの「分類」そのものが私たちと共有できないものであることは間違いない。太古の時代に進化論など通じるはずはない。しかし、それにしてもこの分類を理解するのは困難を極める。
b、c、e、f、g、i、jは何とか理解可能である。しかしhとlはこの分類を破綻させている。大体、順番の途中にhがあるのがおかしいし、lはこの分類そのものを無化させている。これではまるでクラインの壷である。aや f 、kやmは何か他の脈絡があるものだろう。言葉通りには受け止められない。しかしdが特殊な存在であるとも考えにくい。成長した豚は一体どこに入るのだろうか。
何とか読み取れる事は、学術的な分類ではなく主観的あるいは体験的な事柄からなされたものであろう、ということだけである。

音楽のジャンルを考えるとこの奇妙な分類とさして変わらないことに気づく。
エレクトロアコースティック、ノイズ、インダストリアル・ミュージック、ドローン、サイケデリック、フリーフォーク、ラップトップ・ミュージック、クラウト・ロック、ブルティッシュ・ロック、デスメタル、ヒップ・ホップ、ソウル、レア・グルーヴ、ラウンジ、カンタベリー系、スワンプ・ロック、アシッド・フォーク、パーガン・メタル、スムース・ジャズ、イージー・リス二ング、アンビエント・ミュージック、演歌、民謡、歌謡曲、古典音楽、ニューウェイヴ、フュージョンプログレッシヴ・ロックスラッシュ・メタル、ノーウェイヴ、ウェストコースト、サザン・ロック、エスニック、ローファイ、辺境モノ、ゴシック系、エレクトロニカ、パンク、テクノ、デトロイト系、産業ロック、歌モノ…
これらを1000年後の翻訳ソフトに入れたらどうなるだろう。


ディスク・レビューは、辞書のようなものがひとつ在れば事足りるはずだ。それは博識の人間がそれらの音楽の時代背景や影響を客観的に検証して書けばよいのである。
私たちが求めるレビューのエクリチュールの愉しみは書き手の混乱にある。ならばいくつか新たな混乱を付け加えてはどうか、ということで以下のことを念頭において書いていった。
1:事実確認より「解釈」を積極的に評価すること
2:徐々に本文が他へ逸脱する
3:音のない部分をどう読むか
4:部分や作品の背後の強調
5:広範囲でありながら偏りがあること
6:喩えや論理性に空間的なイメージを導入すること
7:地形と音楽の関係についての描写
8:一枚しかない共有できない音盤についての描写
上記の大体を網羅できたが、アイデアはあったが実現できなかったこともある。パターン認識による音の体験からの音楽レビューが難しくて書けなかった。終盤になって遠近法の解釈を取り入れる可能性が閃いたが時間切れであった。これらが悔やまれる。

このように列挙し、取り上げた音盤を省みると古代中国の分類が何となく理解できた気になる。また終わってみると大学時代に読んだバルトの「第3の意味」での分析が影響しているような気もする。

この「音盤たち」は、「はてな」のサービスで製本し、自分のレビュー本を作りたい、という欲求が最大のモチベーションで開始した。
もうひとつ理由がある。
実験シーンにおいて様々な要素のパッチワークがようやく限界を表し、自在な展開の可能性が問われ始めた。しかしそれに反比例して発表場所や書籍が少なくなっている。その参考に成り得る面白い音盤がいつまで経っても無視され続けていることにも納得がいかない。まずは知られなければ始まらないので、自分なりに解釈を加え色々書いてみるのも悪くないだろうと考えた次第である。

針を下ろした(再生ボタンを押した)瞬間に勢いよく音が流れ出すものだけが「楽しめる音楽」ではないということは、私的な気晴らしだけでなく、いくらか主張できたかもしれない。
アーティストからは聴く側への果敢な挑戦が求められている。うかうかしている場合ではない。
(Omay_yad 2005.12)

James Lee Byars  “Perfect is my death word”

omay_yad2005-12-03

バイヤースは怪しげな芸術家である。黒尽くめの服にシルクハット、覆面までして表れ謎めいた作品やパフォーマンスを作ってきた。その活動暦は長く世界的に有名である。
意味深な言葉と金色と黒を多用した作品はどことなく神秘主義的あるいは錬金術的なイメージを漂わし演劇的な印象を受ける。
コンセプチャル・アーティストと認識されているようだが、作品をよく見ていくと、どちらかと言えばシアトリカルな作家と言えよう。文字を印刷した作品やオブジェと彫刻、ドローイング作品の方がパフォーマンスより量は多いが、パフォーマーの作品と捉えた方がしっくりくる。

この作品集は1995年にドイツで行われた展覧会のカタログである。金蒸着CDの作品が付いており、それ以外にも彼の過去の印刷マルチプル作品(一部レプリカ)が多数封入されているので人気があり国内数箇所の専門店に入荷した。この作品集は小さな回顧展のようなものになっている。
最新作であったCDの内容は、20分の無音の後に“Perfect is my death word”と本人の声が一秒間収録されている。その後1分の無音となって終わる。
このCDは作品集のメインではあるが、同封された他の11種類の作品も過去のものとほぼ同等の「本物」であり美術コレクターには興味深いものである。
下記の作品群の11番目の作品は、この作品集のリスト表記から漏れていたものである。CDを含め11種類となっているが実際はもう1種類あった。その作品は”The exhibition of perfect”である。この回顧展を自宅で楽しむ時のタイトルとなるであろう。
十文字に開く白いカートン函の中に3枚の封筒があり、その中に下の作品が収められている。CDは同じ白い厚紙に閉じられて封入されている。

1:WWS HAS BEEN RENAMED THE INSTITUTE FOR THE ADVANCED STUDY OF JAMES LEE BYARS (1969)
長さ11.3cmの星型の白い紙にルーペで見ないと読めない小さい字で上記の文字が印刷されている。WWSとは何のことだろうか。
2:PUT THE PERFECT TEAR IN THE MIDDLE (1976?)
2.5cmの正方形の黒い(艶なし)紙の中心に上記のルーペで見ないと読めない文字が金色で印刷されている
3:THE PERFECT LOVE LETTER(1976)
11.5×15.3cmの薄い紙の中心に上記の文字がエンボスでプレスされている
4:THE PERFECT PERFORMANCE IS TO STAND STILL(1976)
9.3cmの正方形の黒い(艶なし)紙の中心に上記の文字が金色で印刷されている
5:THE BLACK PAPER ON ART(1983)
19cmの円形の薄い黒い紙の中心に上記の文字がエンボス・プレスされている
6:BEAUTY GOES AVANGARDE(1986)
52.2×38cmの薄い白紙の中心に手書きの星型模様が集中した線描が印刷されている。10.5×19.3cmに折りたたまれている
7:JAMES LEE BYARS(1986)
39×27.8cmの無地の金紙(裏は白紙)が4つに折られている
8:THE PERFECT THOUGHT(1990)
太さ0.3mmの2mの3本撚りの金糸
9:TRIBUTE TO THE NEW GENERATION(1991)
1.8cm直径の金色(両面)外延から中心に伸びる螺旋の細い線がエンボス・プレスされている。同じものが3枚で1組
10:THE PERFECT SMILE
7.7×4.2cmの黒い(艶なし)紙の中心に上記の文字が金色で印刷されている。単語の間の空白はな15文字が繋がっている
11:THE EXHIBITION OF PERFECT(1980)
2.5cmの正方形の白紙の中心に上記のルーペで見ないと読めない文字が印刷されている。
12:PERFECT IS MY DEATH WORD
20分の無音の後に上記の声が一秒間録音されている。その後1分の無音。ゴールドCD

こうして作品群を一覧してみるだけでこのアーティストのエキセントリックな様子が理解できるだろう。

このCDを面白くしているのは金蒸着である、ということだろう。黄金の中から声が発せられるのである。バイヤースはこの展覧会の2年後の1997年に永眠した。
芸術家は作品の中で生きている。この黄金の円盤の中で彼は完璧な声となって存在しているのだ。

Bücher-Editionen-Ephemera
Neus Museum Weserburg Bremen 1995