”Proletarian of Noise” Mattin

omay_yad2007-01-28

タイトル:Proletarian of Noise
アーティスト:Mattin
レーベル/番号:hibari music/hibari-10
制作情報:CD/2006年/日本

マッティンはアナーキストだ。彼の思想がどのように形成されたかは判らないが、バスク生まれであることと関係があるかも知れない。国籍はスペインだが自らをスパニッシュと称すことはない。破天荒な作品が眼を引くマッティンだが美学の博士号を持っており、実験的な音楽だけでなくメッセージ性の高い映像作品も発表している。このアルバムは資本主義、とりわけ芸術の貨幣価値への挑発を行っている。音楽制作に関してはフリーソフトのみを使い、一貫して著作権への反対を表明している。英国長期滞在時には、空き家に不法占拠し警察当局から逃げ回っていたという。激しいフィードバックとホワイトノイズと空白で構成され、ラップトップ付属のマイクに叫ぶこのアルバムは、英のハーシュ・ノイズ、Whitenoiseを確信的に流用しているようである。これまでの彼の作品と比べものにならぬほど激しくパンキッシュである。彼は芸術という非生産的な場所に身を置き、そこから純粋な価値、貨幣交換になり得ないものを創造しようとしているのだろうか。生き様を売り物にしようとする胡散臭い輩ではない。彼は数回来日しているが、自己矛盾など微塵もない自然体のパフォーマンスを繰り広げ、現在の在住地、ベルリンに飄々と消えていった。今後の展開に眼が離せない。
アルバム・ジャケットは当人の希望で日本のノイズ・バンド、非常階段の「King of Noise」の画像をJOJO広重氏の許諾を得て使用している。

音盤随想<時間のフレーム>

omay_yad2007-01-23

手元に2つ、全く関連の無いアルバムがある。両者の音楽の姿を時間と評価という視点から見てみたい。
■「東シリア教会エジプト・カルデア主教の典礼歌」ネストリウス・カルデア教会司教ベデ(歌、朗読)1977年1月7日現地録音 (世界宗教音楽ライブラリー SevenSeas キング・レコード)

■Cisfinitum 「Bezdna」(Monochrome Vision mv02 Russia 2005)

「シリア地方の古代の豊富な文献が示すように、東方においては長いあいだ、〈霊感を受けた〉説教が教化的であると同時に叙情的な形式で発達した。そこにキリスト教の聖歌の一つの起源、それも恐らく主要な起源を見るべきであろう。・・・略・・・ユダヤ教会堂で歌われるピュトからエフラエム(306〜73頃)の聖歌やビザンツ聖歌隊の歌に至る連続性は驚くべきものがある。」【教父と東方の霊性・ルイ・ブイエ著】
このアルバムは恐らく最古のキリスト教音楽である。ネストリウス派はエフラエム歿後の431年にエフェソス公会議にて異端とされ、ササン朝ペルシアの領土に退き、中央アジアから中国まで活動範囲を広げた。中国で景教と呼ばれたキリスト教の一派である。「カルデア」とはバビロニアのことである。古い歴史を背負っていることがその名前から伺い知れる。
エフラエムは初期キリスト教修道生活者のひとりヤコボスに師事した。ヤコボスに限らず殉教の覚悟を持った当時の熱心なキリスト者は絵画の題材にしばしば使われた「聖アントニオの誘惑」のアントニオス(251-356歿)の影響を受け、修道生活を砂漠や山で行っていた。エフラエムはその伝説的な最古の修道生活者と同時代に生きた人間である。晩年、エフラエムは山を降りエデッサにキリスト教学校を設立した。このアルバムに収められた歌はそこでの司祭職時代のものかもしれない。この歌の旋律は口承によって後世に伝えられたものだろう。口承伝達は一見不完全極まりない方法と思われがちだが、記録が不充分であった時代のものはかなり信頼できるものである。吟遊詩人であったグルジェフの父がギルガメッシュの抒情詩を正確に暗記していたのと同じように、歴史や宗教に関するものは長大であっても正確を極める。変形される場合は大抵、政治的な事情による場合がほとんどである。幸い東方教会は伝統を重んじる。まるで教会堂が建立された時から絶やされることのない祭壇の火を見るが如く、私たちはこの録音で4世紀当時のエフラエムが歌ったものをそのまま聴くことができるのだ。この歌は今後も変わらず、これからも歌い継がれていくだろう。その音楽の姿はいつ暫定的に記録をしても、歌い手こそ変われ、ずっと4世紀の姿のままである。なぜならそれは典礼であり、音楽的解釈によってその姿に変動が与えられることは在り得ないからである。エフラエムの音楽の存在は時間のフレームから自由である。

Cisfinitum "Bezdna" (Monochrome Vision mv02 Russia 2005)
Monochrome Visionというロシア新興レーベルからの第2弾リリース作品。その出版コンセプトは「大きな文化産業の陰に隠されてしまっていた20世紀の電子音楽の歴史に僅かな貢献を捧げる」というものである。Miguel A. Ruiz、hhtp + portablepalace、Rafael Flores、Kinetix、Maurizio Bianchi、Siegmar Fricke、Lt.Caramel、Das Synthetische Mischgewebe、Frank Rothkamm、If, Bwana、Falx Cerebri、Batchas等、主に実験音楽シーンで10〜20年前に注目されたアーティスト群、音律や旋律に乏しい不定形の電子音が電子エコーのもとで唸りを上げるタイプのものが多い。電子音楽シンセサイザーなどの使用機材によってその音楽を発展させてきた経緯がある。ラップトップ音楽を通過した現在の視点からその音楽の姿を冷静に見ると、音楽の特徴を形作っているものはヴィンテージ・シンセやエコー・マシーンの特有の音色であることが意識される。過去の歴史としながらもこのレーベル場合は古い作品の再発を行うのではなく、未発表音源や新作品のリリースを主眼としている。今日取り上げたCisfinitumは2003〜05年の間に作られた新作である。しかし使用された機材はANSやPolyvoxといったソヴィエト時代のヴィンテージ・シンセサイザー・システムである。このレーベルが語る過去とその評価には流動性が見られる。「過去の歴史」に光を当てることで、新たな評価の可能性に開かれるように仕組まれている。様々な音楽的文脈からの柔軟な解釈に開かれ、暫定的な評価を積極的に取り込みながら音楽の可能性を模索しているのである。クリアーなマスタリング作業によって提示された不定形の音楽はリスナーの受け止め方によってその姿を変える。これらの音楽は時間のフレームの中で自由を得ている。

【新譜紹介】”and so on” Mitsuhiro Yoshimura

omay_yad2007-01-21

タイトル:"and so on"
アーティスト:Mitsuhiro Yoshimura
レーベル/番号:(h)earings/HR-01
制作情報:CD・2007年・日本

吉村はミキサー(あるいはレコーダー)にマイクとモニターヘッドフォンを繋ぎ、そこで起るフィードバックを演奏とする。時に僅かにヘッドフォンを動かすこともあるようだが、フィードバック音は演奏の開始と終了を、その演奏そのものによって提示する。演奏がどのようにして音楽となり得るのか、と問い詰めながら行われた実践である。この慎重な洞察力は評価すべきだろう。
一般にハウリングと呼ばれるフィードバック発振の音をそれが発音された空間に応じたものだと断定することは間違いである。パイプ管のような細長く狭い空間でマイクとスピーカーが対峙して置かれるような場合は、その気柱の長さとピッチは比例するが、たとえそのような理想的条件であっても、ある程度の音量を超えたものは、実はマイクからスピーカーを含めた電子回路内で発振されたものである。このことは実際に耳にするフィードバックの音が大体いつも同じ(数種類)ピッチであることを思い起こせば理解できるだろう。もし純粋に実空間との作用でフィードバック・ループが形成されるとしたら、空間の体積に応じて何オクターブもの幅を持った音が発生するはずである。それでは吉村のフィードバックは空間と無関係なのだろうか。そうではない。何の動きもない空間におけるフィードバックは回路内で安定し、一切変化を生み出さない。吉村のそれは一瞬たりとも静止してはいない。これは伝播する際の空間で起る動きによって変化したものである。観客や吉村自身あるいは空調や外部からの音などがトリガーとなって、その持続音に切り替わる契機を与える。このCDで聴かれる音の変化は、ネコ科動物の動体視力に喩えられるかもしれない。動いた瞬間に生み出された変化が記録されている。注意して聴くと安定しているかにみえる音も常にその振幅が揺らいでいる。その意味で空間の音であり、まさしくライヴである。シンプルな装丁のCDには大谷能生と杉本拓によるライナーが同封されている。

”battimenti” Pietro Grossi

omay_yad2007-01-14

タイトル:battimenti
アーティスト:Pietro Grossi
レーベル/番号:ants/AG03
制作情報:CD/イタリア/2003年

オシロスコープのプローブをオーディオ・システムのスピーカー端子に繋ぐ。極微弱なランダムな波形が表われる。アンプの電源をオンにするとランダム波形は一本の静止した線を描く。これが無音/オフの状態である。スピーカーは電源を入れる前と後では見かけ上の変化は無いが、オーディオ・システムにおいて「無音」とはひとつの「状態」である。
今度はその直線をヒモと仮定してみよう。ヒモは揺れると波を描く。サイン波はその波の幅と高さがずっと同一の状態で続いたものである。この幅が細かければ周波数(ピッチ)が高くなるのである。高さは振幅、音量である。一定に揺れているヒモに、もうひとつ異なる周波数の波を加えれば2つの波は重なり合い、ヒモに表われる波形は変化する。そこにまた別の周波数を重ねれば、当然ヒモの波形は影響を被る。電気信号は常に一本のヒモのような一次元の運動である。いくら異なる信号を多重ミックスしようとも複数の次元(ヒモ)にはならない。
この作品は395Hzから3刻みで405Hzまでのサイン波に1〜11の番号をつけ、それらを坦々と重ね合わせる作業を、組み合わせを変えながら繰り返すものである。近似値の周波数は干渉し、その都度周期の異なる単調な音の連続となる。極端にミニマムな電気信号の実験のようだが、これを実証しても何の成果も達成できないだろう。彼の関心は組み合わせという事自体にある筈だ。これが音楽であるとしたら、組み合わせは作曲作業に他ならない。電気信号の一次元運動を作曲空間へと変換させているのだ。作曲空間とは私たちの志向性を反射させる場、つまり意味作用を形作る空間である。
グロッシは1917年生まれ、この作品は1960年代初頭のものである。

“Hora Harmonica” Albert Mayr

omay_yad2007-01-10

タイトル:Hora Harmonica
アーティスト: Albert Mayr
レーベル:Ants
シリアル:AG02
制作情報:CD/2002年/イタリア

Albert Mayrは西洋和声概念に着目しこの作品を作った。元は83年に作曲されたものだが、音盤として実現されたのはこれが初めてのようである。作品の構成は空白の中で12の単音が一定周期で音を繰り返すものである。周期とはいってもかなり長い。
B1は60分周期、B2は30分周期 F#3は20分、 B3は15分、D#4は12分、 F#4は10分、 A4は8分34秒、 B4は 7分30秒、 C#5は6分40秒、 D#5は6分、 E#5は5分27秒、 F#5は5分周期。空白の中サスティンの長い滑らかな電子音が発せられる。最長のB1の電子音は始まりと終わりに一回づつ、最短のF#5は60分のうち15回鳴らされる。ところどころのポイントで電子音は同期し、和声を発する。ブックレトに掲載されている発音タイミング表の各々の発音ポイントは時間軸を縦に線対称を形作る美しい放物線になっている。
Horaは伊語で「時間」である。「音は周期となり、時間は音楽となる」「この作品はコンサート・ピースではなく、どちらかと言えばインスタレーションに近いものかもしれない。再生されるべき空間は人が集まる公的な場所が望ましい」とAMは語る。
しかし、この作品は楽曲として接した方が刺激的ではないだろうか。美的であることを超え、時間と周期による和声は明解な調和を描いている。

”2006 1” Manfred Werder

omay_yad2007-01-02

タイトル:"2006 1"
アーティスト:Manfred Werder
レーベル:Skiti
シリアル:sk01
制作情報:CD/2006年/日本

Manfred Werder (composition)
Tetuzi Akiyama(guitar,stones)
Mashiko Okura(alto sax)
Toshiya Tsunoda(tambura)
at Tamagawa-Ryokuchi,Tokto,may 14 2006

河原で行われた演奏の実況録音盤である。マンフレッド・ヴェルダーの「2006 1」のスコアは以下のテキストである。

a place,natural light,where the performer,the performers like to be
(場所 自然光、演奏者の居るところ、演奏者たちが好むまま居る)

これを手渡された3人の演奏家たちは解釈に戸惑いながら発音を試みる。環境音に混ざるように楽器を発音させたり、その場所にある何かに楽器を接触させたり、あるいは動いたりと。録音の最初の部分では、演奏会に集まった子供たちの声や歩く音、鳥の鳴き声、遠くのイベントや電車の音など鮮やかな河原の情景が耳に飛び込んでくる。そこに楽器の音色が微かに聴き取れる。そのうち、演奏家たちは自ら立っている場所の背後にある川を見つめはじめる。もはや楽器を触ることはない。ただ佇んでその景色を見つめることが演奏行為に置き換わる。偶然と言えばそれまでだが、演奏家たちが川を見つめだしてから周囲の音は徐々に静まり返っていく。3人の佇む姿が聴こえる。音だけ聴けば河原のフィールド・レコーディングだが、ここに収録されているのは、演奏家たちが発音を試みようとする行為から、川を見つめるに至るまでの、静かな、そしてダイナミックな過程の記録である。これはスコアを意識しなかったら享受できないものである。

“ein(e) ausführende(r) seiten 218-226” Manfred Werder

omay_yad2007-01-01

タイトル:"ein(e) ausführende(r) seiten 218-226"  
アーティスト:Manfred Werder
レーベル:Edition Wandelweiser Records
シリアル:EWR 0601
制作情報:CD/2006年/ドイツ
Realisation:Antoine Beuger

Manfred Werderは現在、最も先鋭的な作曲家グループ、Wandelweiser楽派に属するチューリッヒ在住の作曲家である。このCDは再生装置のヒスノイズに埋もれるくらいの5、6秒の小さなホワイトノイズが10数秒おきに入る72分の作品である。タイトルの最後についた番号から察すると、このCDに収録されたものは作品の抜粋のようである。この楽曲の全体像は膨大な長さである。録音時間をメディアに合わせたら全ての音楽は80分くらいで(一旦)区切りのつくものになってしまう。彼はケージの静寂、沈黙という言葉から作品を展開していると思われるが、演奏や楽曲のあり方に関しては、よりラディカルである。彼には「2005 1」という作品がある。この曲のスコアは何と「場所 時間 (音)」という3文字だけでが記されている。その他、何の条件付けや設定指示もない。どうやってもいいし、何もしなくてもいいのだろうか。ここで彼の意図を考察してみよう。ある場所を任意に選ぶ。場所とは何か。何を持って場所とするのだろうか。時間とは何だろう。演奏の長さのことだろうか。それとも選んだある場所に流れる時のことだろうか。(音)とは何だろう。カッコに入っているのは何故だろう。任意の場所や時間には何らかの音はしている。その場所にそのままある音のことだろうか。この作品は、ある場所を選んで任意の時間その場所を聞く、ということだけではないだろう。そこまでは、別の作家によって既に数十年前に試みられている。音とは物体のように存在するものではない。要は聴くこと、だろうか。これも誰かがやっている。具体的な条件や設定を一切記さないということは、そのこと自体を考察し、各自が暫定的な決定を下すことを促しているのだろう。場所も時間も音も、よく考えると実体があるようで曖昧である。現代音楽的思考をキャンセルして、素朴に考えるべきだ。「2005 1」という作品に対して、演奏を無条件に前提にしてしまったらそれは既に持ち合わせている色眼鏡で覗くことになろう。私たちは戸惑いながら受け止めるしかない。即時に結果を出す必要はないのかもしれない。このアルバムもそのように受け止めるべきだろう。聴こえるかどうかわからない音、全体の長さが不明な作品、その存在感とはどのような意味を持つのだろうか。ここでは恐らく聴くこと以上に作品に向き合うことが促されているのだ。